イギリスと日本の関係 18‐19世紀

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イギリスと日本の関係というと、歴史的にもいろいろあります。

18世紀以前には、1587年 イギリス人「航海者」のトーマス・カヴェンディッシュ、スペイン領バハ・カリフォルニア沖でスペインのガレオン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人とクリストファー(20歳)とコスマス(16歳)を自分の船に加えました。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人といわれています。そして1600年 オランダ船リーフデ号が豊後国(大分県)に漂着し、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)が徳川家康の外交顧問となりました。1613年には、 ジョン・セーリスがイギリス国王ジェームズ1世の国書を徳川家康に奉呈し、正式な国交が始まりました。しかし、1623年になると、 アンボン虐殺事件の発生による英蘭関係の悪化と貿易の不振により平戸のイギリス商館を閉鎖され、日英関係は事実上断絶しました。

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1673年 リターン号が来航して貿易再開を求められました、徳川幕府はかつての一方的な撤退し、チャールズ2世とポルトガルのカタリナ王女との婚姻問題を理由にこれを拒否しました。

こうして18世紀以前の日本とイギリスの関係は、それほど良好ではありませんでした。

19世紀になると、1808年に フェートン号事件がおきました。ナポレオン戦争中、イギリス船による長崎・出島のオランダ商館襲撃事件です。江戸幕府の対英警戒態勢の不備が明らかになりました。1835年には、イギリス人に救助された尾張国出身の船乗り音吉が日本人として初めてロンドンを訪問しえ、その後、イギリスに帰化しました。

1840年にんるとアヘン戦争が起こりました。イギリスが清朝に勝利し、香港を獲得した事を知った徳川幕府は、異国船打払令を1842年に撤廃しました。
1854年10月14日(嘉永7年8月23日) 日英和親条約が調印し、徳川幕府を代表している長崎奉行とジェームズ・スターリング提督(Admiral Sir James Stirling)により締結されました。

そして1863年になると長州五傑(井上聞多、伊藤俊輔などの長州藩士5名)が藩命としてイギリスへ留学して、この年に薩英戦争が起こりました。前年の生麦事件の報復としてイギリス海軍が鹿児島を砲撃して、以後、薩摩とイギリスの関係は良化しました。1864年には下関戦争が起こり、攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠しました。帰国した井上と伊藤は開戦を止められず、事態収拾に奔走しました。

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そして1894年には、 日英通商航海条約は青木周蔵とキンバレー外相の間で調印し、治外法権の撤廃で不平等条約が一部撤廃されました。1896年には、 アイルランド人のラフカディオ・ハーンがイギリスから日本へ帰化し、小泉八雲と名乗りました。1900年には、夏目漱石、文部省研究員としてロンドンへ留学し、文学や芸術でもイギリスと日本の関係が始まりました。

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